昭和40年12月24日 夜の御理解



 笑い話のような話ですけれども、ある〇〇教としましょう。そちらの宗派は先生がお導きに回られると云う、いわばそういう教風なんですね。お道の信心ではおかげを受けた人が話をして行くと。お導きをすると云うのは有難い、そういうなんですけども、教師が出かけて行ってお導きして回ると云ったようなことない生き方ですから、その〇〇教の先生がお導きにある所に行かれたんですね。
 ところがそこのお爺さんお百姓さんで、そりゃお参りもよかろばってん、私どんごと朝から水飲み百姓でとにかく田に畑に出て毎日毎日こうやって働かなければ食べられん者はそんなにお神様参りもよかろけれども、なかなかでけんて、その言われたち云うわけですね。それで教師の人が言われたんです。お爺さん、この神様を信心してご覧なさい。ちゃんと畑でん田でん神様がして下さるですがち。
 勿論これは深い意味で言われたんでしょう。そしたらお爺さんが言われることなんです。先生ほんなこつですかち。それがほんなこつであんならあたしゃ明日からでん参りますばいと言うてその言われたと云うことです。ところがです、その晩その布教所の人がですね、そのお爺さんが耕しておったところの畑を夜中に行って一生懸命に耕してやられたわけですね。それをお爺さんは見とったと云う。
 はあ、これはその神様がして下さりよるとじゃなくてから先生がしてやらっしゃると、私はそういう様な話をですね、本当にこの人が自分の言うておる信心に本当に自分が幸せならです、この人もこの信心すりゃこういう幸せになれるだろうと思うたらその布教所の人じゃないけれども、本当に畑に耕しに加勢に行ってやるぐらいなことは問題じゃない様な思いが致しますですね。
 それはまあ、お爺さんが反対ですね、先生を利用したわけですけどもですけども、先生は本当にこの人もお導きが出来るならば、そのそれは神様がして下さるよと云う手前晩に行ってからホーラ見てみんなさい、ああたが畑に今日行ってみなさい、きれいに耕してあるですよと、ま言うつもりであったと云うような笑い話ですけれどもです、その中から私は本当にこううがったものを感じますですね。信心は。
 もう十四・五年も前の事でございましたでしょう。田主丸にもう私むつやにお話に毎月行きよる時分でした。あの時分に田主丸の町に非常に何か悪い流行病がはやったことがございました。疫痢だったでしょうか。何かそんなとにかく避病院の病室が足らんと云うぐらいに十四・五年前そんなことがありましたんでございますが、私お話に参りますとむつやの広い二階がいっぱいになりよりました。
 あちらで私がお話をする時にです、本当に皆さんが、私の言うことを聞いて下さるなら信じて下さるなら、私や貴方達の目の前で、確か疫痢菌なら疫痢菌だったでしょう、皆さんの前でなめてみてもいいて、言うてお話をしたことがあった。私は本当にそんな気持ちだった。この人達が本当に神様を信じてくれるなら、本当に信心のおかげを受けて、幸せになってくれるなら、ね。
 確信を持ってすればこういうおかげが受けられると云うことをです、ね、皆さんに聞いて貰ったことがあります。これは私ならずでも神様はもっともっとそういう様な、いわば氏子が信じてくれるなら神様がどの様な働きでもして下さると云うことを私感じることがいくらもございます。氏子が助かってくれるなら、氏子が本当の意味で神を信じ、おかげを頂きたいのではなく。
 本当に信心を頂きたいなら神様はその氏子が信じなければならない様な働きをして下さるのです。只おかげを頂きたい、おかげを頂きたいと云うところにはです、不純があったり矛盾がありますからね。神様はそのおかげに対して働きは下さらなくても本当に神様を信じたいと、私は貴方を信じたいと、そしていわば神を信ずる生活、神を信ずる幸せを頂きたいと云うような願いをもってです。
 信心をするならば神様を信じなければおられないような働きを周囲に見せて下さるですね。椛目の場合なんかはそれこそおかげを求めての人が多いでしょう。それでもです、それでも神様はね、神を信じさせようとなさる働きです。そしておかげから信心を頂きたいと願う氏子をお育て下さることの為に神様は様々な働きを見せて下さるもんですよね。今日、昨日の謝恩祭親先生にお御苦労おかけしましたんですが。
 何時も家族で御礼に出ます。今日は私と家内と二人で御礼に出ました。あちらで親先生大変喜んで下さったんですが、あちらでお茶でも頂いてゆっくり頂いてきました。それで帰るときになりましたらその自動車に電話をかけようと仰るです。いいえ今日は足もピンピンおかげ頂いとるますけん、歩かにゃ勿体ない、歩かせて頂きますち言ってから、その電話掛けて下さったけれども。
 その私が歩いて帰るて言うから、帰って来た訳なんですけども、善導寺町に出てからちょっと行きましたら正義さんが車で止まっとります。丁度出て来とるところです。いや先生本当に神様ちゃ間違いなかですね。今私は役場にちょいと寄らんでもよい用件じゃったけれども寄って二十分ばっかり寄りたいと思うて寄って二十分ばかり話して出て来た今とこじゃった。今から合楽の方へ行きますからどうぞと云う訳なんです。
 それこそ本当に、私と一緒に行動して下さるならば、いや皆さんもです、そういう体験は頂かれましょうけれど、只ふがよかだけでは、済まされないものが、私の周囲に一杯あると云うことです。もうこれは、どうにもでけないものです。これなんかはですね、神様が私に連れのっておるところの、家内なら家内に信ずる力を、与えたいばかりなんです。私は信じとる。
 けども神様は家内に、お父さんの一緒に立とうと言いなさった時に、立ちさえすりゃこげなおかげが受けられると、分からせて下さる、神様の演出なんです。立ち上がる時に、ほんに大坪さん、あんたげん御造営のありよるとこの、大工さんがなんかに、手紙が家今朝から迷い込んで来た。それで来てから手紙を持って来て下さった。ですから又正義さんにそれを行きがけに、持って行ってくれと云うて、合楽に行きよろといよるもんですから、ことずける様なことでした。
 先程食事の時にです、久富先生がいつものことながら本当に間違いないですねち言うてから話されるんです。勝手の方の御用頂かれた方達はご承知でございましょうけれどもです、昨日百何十かの御直会がでけました。ところがそのお刺身が足りないんですね。鯛が、大鯛が二枚でしたか、大ぶりが二本、ところが一本のはそのまだお供えてなかった。そのお祭り中に来たらしいから冷蔵庫に入れてあったらしいです。
 ところがその足りない、で誰かがさっきからお供えが来よりましたが、冷蔵庫開けたら入った。それを使わして頂いたら、あの百何十名のお刺身がきちっとあって吸物がきちっとあったと言うておられる。も、だから昨日の魚は四匹ながらきれぇいに使ってしまいましたよと言って話しておられます。「間違いのなかの」だけでは済まされん。そういう御用の中に使うて頂くと云うことがです。
 御用さして頂きよる者も、神様の間違いなさをです、御用さして頂いとるその者に、確信させよう、信ずる力を与えて下さろうとする、働きがありよるとですから、それが分からなかったら、神様はがっかりですね。いつもの事ながら、神様の間違いなさに驚くだけじゃいかんのです。貴方にそれを、与えて下さろうとする働きなんだ。神様を信ずる生活こそ本当の幸せなんだ。
 今も御祈念にかかる前に繁雄さんが見えてからです、経理の御用頂いとるもんですから、今日夕方委員長が秋永先生が寄られましてから、こうこうと言ってその明日の井上組の支払いの事で寄られた。夕べここで皆さんに私きりのかたその秋永先生にです、向こうは百九十何万ですかね、ですから、けども二百万、けども向こうはどうももう少し要ると、云うなら二百五十万で話をつけてきなさい。五十万だけかててあげようと言ってから二百五十万で話をつけてきなさいて私が夕べ言っときました。
 久富先生が今日行ってから二百五十万だけ払おうとこういう訳なんですね。ところが向こうではも少し足りない訳なんです、金が。お互いが何とか、けども親先生昨日そげん言うてあるからちゃんとよかがち。あんただん椛目の信心知らんけん、親先生がこうやって目つぶんなさりゃちゃんとそりゃ分かるとじゃけん、二百五十万でよかち。そげん言いなさんならどんこんしよんなかち言うてから、そのあんまりそれがその人いうごたる風にありますもんですから。
 又途中で秋永先生やって参りましてから、先生こげな風にいよりますがて云うのです。それはそれでよかろうばってん、そんな向こうが百九十七万でしたか、百九十七万だからそれに百万だけつけてやんなさいて私が申しました。もう五十万。そんなら二百九十七万いやん三百万に丁度、いや向こうが二百九十七万向こうがいよるとに百万かててやると云うことにしなさいて私が申しました。
 それから早速自分も嬉しいもんですから、すぐ電話掛けよるとですもん。そりゃもう電話で大変喜びじゃったそうです。そしたら夕方又あすこの私の部屋の所の分からん所があるから、先生見て頂かにゃんて言うてもう参りましたが、本当に大した事ですねえ。あちらの中に入って皆さん見てご覧なさい。そりゃもうほんに大した事です。今日あちらの尾形さんが言っとりましたが、最近は三名四名必ず参観者があるそうです。
 ですからまあ、ずうっと中を見せてくれと云って来るから毎日それがあるそうです。あれだけ形が出来て参りましたらね、業者の人又は神社仏閣関係の人と云う風な人達がですね、もう改まってのあすこ参観に来る人達が目だっとります。今日も三人見えましたち云うてから話とります位に素晴らしいですね。新しい感覚、それでいてやはりここお宮さんか教会かばいのと云う一遍分かる様な風にでけて行きよる訳なんですね。
 そんなわけであちらへ参りましたんですけども、もう私が自動車から降りましたら尾形さんがそれこそ大体実意丁寧な人ですけども、平身低頭、も親先生助かりましたち云うてから、年末の金ですからね、どうでしょう昨日三百万払いましょうち言うとったら、そんならまあ五十万ばっかり出して下さいとこう言うに違いないです。きがないとですから今の商売人とか事業家の年末の金ですから、ね、
 けど私二百五十万と言うとったからですね、いわば今日百万かてて貰うと云うことがです、もう本当におかげで助かりましたと言うてですね、ただで貰う様にして喜ばれるじゃないですか。秋永先生が神様のかけひきには恐れ入りますねち言うてから云うてるんです。そのことをです、帰りに経理の、だから銀行こげん言いなはったが大体銀行帳尻はいくらのち云うてから繁雄さんに聞きに行った。
 ところが丁度いわば明日払わして頂く二百九十七万あったそうです、ね。だから三百万で足らん訳です。だから百万だけかててやんなさいと云うことなんだ。それこそあんまりきっちりしとるけんで繁雄さんが、アリャこりゃ自分な見違えとらんじゃろかて、又聞き行ったら、したら確かにその二百九十七万でした。明日なら井上組に払うのも二百九十七万なんです。百九十七万に百万かててやると云う訳なんです。
 もう本当に恐れ入る。いくら入らんち言ったっちゃ入らにゃおられんでしょうが、ね。それとてもです、神様の働きが素晴らしかと云うだけではない、秋永先生に繁雄さんにそれを聞いて下さる、目の当たりに見たり聞いたりして下さる方達にです、こういう間違いのない働きであんた達の上にも神が守っておるぞ、おかげをやっておるぞと云う働きを見せて下さるのですよ。
 その実感がです、こう間違いのない働きの中におかげを頂いておると云う実感がです、そういう実感がいわゆる真に有難いと云うことになる実感なんです。真に有難いと云う実感が、そのままおかげの元になると神様は仰るのですから、神様も信ずる者を信ずると仰る様に信じて神様を貰わにゃならん。為にはです、例えば畑でも耕しにでも行ってやんなさりたいものがあると云うことをです。もしこの氏子が
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